2014年3月9日 心を開いたことに対して
心を開いたことに対して、頭の中のもう一人の私が
「なんで心を開いたんだ!辛い人生に絶望して心を閉じたのに!」
と言っている。
ああ、そうだったな、と思った。
私は、父が出ていった時の悲しみに絶望し、言葉を聞いてくれない母の辛さに絶望し、母と姉のいがみ合いを見て人生に絶望して心を閉じたんだったな、と。ふと、思い出した。
もう一人の私の言い分はもっともだと思った。
辛い人生に帰還することになるんだから。
少しだけすまない、と思った。
でも、なぜだろう?このように考えた後、心が少し軽くなったのは。
不思議である。ふしぎ遊戯や摩訶不思議アドベンチャーが霞んで見えるほどに。
2014年1月6日 愛がほしい、認めてほしいという感情
分かった・・・・・・
分かった気がする・・・・・・
どうやら私の心には
愛がほしい、認めてほしい
という感情が渦巻いているようだ。
心を一つのカップと想像してほしい。カップが嫌ならビーカー、フラスコ、あるいは
試験管、尿瓶、ホイポイカプセル、なんでもいい。
以前の日記に書いた心のイメージ図(↓)、
の一室でもよい。
その心のカップが、私の場合、
空になっており、その中に「愛がほしい、認めてほしい」という気持ちが嵐のように吹き荒れているようなのだ。最近そう感じた。
愛への気持ちはまさに
切望、渇望というもので、冬の嵐に相応しい勢いなのである。その満たされない想いが時に
外部への不満、怒り、妬み、恨みなどに変換されるようなのである。なんというか長年抱えた難問を解いたような感じがした。
おそらく、子どもの頃に愛を実感して育った人は、カップが愛で満たされている、あるいはカップを自ら満たすことができるのではないだろうか?
そして、愛を受けないで育った人は、私と全く同じとは言わないが、同質の気持ちを抱えているのではないか?
では、この現状を認識した上で何が大事か?
それは
「認めること」ではないだろうか?
周りから認めてほしい、という気持ちが出てきた時 ⇒ それは私の大切な感情である
満たされない想いで悲しい、という気持ちが出てきた時 ⇒ その悲しみも私にとって欠かせない感情である
満たされない想いが変換されて外部への不満になった時 ⇒ その不満も私の大切な感情である
というように、全てを大切なものとして受け入れることが大事なのではないだろうか?
実際に、感情を認めて受け入れると心が落ち着くようなのである。空のカップに渦巻く感情を一つ一つ
認めていくことが自らのカップを満たしていくことになるのではないだろうか?
2013年12月12日 とある日の言い争い中の一言
まあ、いわゆる
「愚痴」であることを断っておきます。
今日、母に一言言われました。
内容は些細なことです。「〜をしてほしい」的なことで。本当に些細なことです。
しかし、それを否定的なことと受け取った私は不満を感じました。
私が言いたかったのは「否定ばかりは止めてほしい」ということで。
直接は言えない私は「本のココを読んでほしい」という方法で伝えました。
それに対し、母の言い分は「否定の意味で言っていない」。その言い分は分かるのですが、そこからちょっとした言い争いになり。親子問題の話になっていきました。
こういう言い争いの時、大抵、「母の発言:私の発言=8:2」ぐらいになります。過去のこともあり、今だ母に意見を言うのが苦手なのです。母に心を開き以前よりましになったと言えど、です。今日もそんな感じでした。
母の言い分は分かったので、私の怒りが燃えさかることもなく、ショックを受けることもなく、聞いておりました。
その後、母に意見を言う言わないの話になった時、母から出た一言。
「なんで言いたいことを言えないの?親子なのに」
母は嫌がらせで言った訳でなく、素朴な疑問からこの一言を言ったのでしょう。
しかし、この発言は私の心に突き刺さりました。画像で説明させていただくと↓
です。
私はこれまで、何故、母に心を開けないのだろう?何故、母と絆を結べないのだろう?何故、友人と絆を作れないのだろう?と考えてきました。苦悩してきました。そんな自分を責めることも良くありました。
その状況に対し、母自身からこの一言を言われてしまうと・・・。
胸にズドンときました。どの感情か良く分かりませんが、多分、悲しいのだと思います。
今夜は悲しみの水底の行けるところまで沈み込むつもりです。
2013年9月3日 もっと母に甘えたかった
映像が目に浮かぶ。
家の2階。寝室に母、姉、私。
私は小学2年、姉は小学5年くらいだろうか。姉が母に甘えておっぱいを触っている。少し遠くからそれを見ている私。表情は無表情のよう・・・。
私は本当は母に甘えたかったんだと思う。姉と同じように甘えたかったんだと。しかし、もうこの時には、父への憎しみをぶつけてくる母が怖くなっていたのか、素直に甘えられなかったようだ。
これを思い返すたびにとても悲しくなりますが、自分の本当の気持ちが分かったことについては嬉しく思います。1年前、母に心を開こうとしたことは間違っていなかった、という気持ちになります。
2013年8月22日 母へのわだかまり
母に心を開いてから約1年。最近思うこと。
それは、まだ心を完全に開いていないこと。
当然と言えば当然ですよね。10数年の心の歪みが、ある時を境にして一気に解決!となるはずはないですよね。
10数年閉じた心が開くには、同じだけの時間がかかる。そう思い始めています。質量保存の法則みたいなものです。
そして、もう一つ。母へのわだかまりも完全に消えていないこと。
どす黒い炎が完全に消えるまで、同じだけの時間がかかるようです。
近頃、顔を出した母へのわだかまりを書いていきます。
---------------------------------<わだかまり>---------------------------------
母はずるいと思う。
「はじめに」にも書きましたが、私の父は、私が5才の時に家を出て行きました。
その後、私が小学2、3年生の頃だったと思います。
「おじさん」という方が家にくるようになりました。
つまり、母の良い関係の人です。
当時は子どもでしたので、関係について気にすることもなく、分かることもなく。
たびたび家に来たり、泊まったりして。
それが、高校生くらいまでは続いていたと思います。
まあ、母には母に人生があるし、新しい人を好きになることは勝手です。
ただ、私は悲しかった・・・。当時はあまり悲しいそぶりを見せていなかったと思います。悲しみを感じないように、もうその頃から心を閉じ始めていたのかもしれません。今、振り返ると、確かに悲しかった・・・。
おじさんばかりでなく、私にも関心をよせて欲しかった・・・。
母は、私にはいつも怒ってばかりだった。
・・・・・・
父がいなくなって、母にはいつも怒られて辛い私は置いておいて、自分は好きな人と一緒ですか?
このようなことを言うと、「自分一人で子どもを育てるのは辛かった。支えてくれる人が欲しかった」と言うかもしれません。確かに、女手一つで大変だったと思います。支えが必要だったかもしれません。
でも、そうであるなら、その時独りだった私は?
私も支えが欲しかったです。
---------------------------------------<終>---------------------------------------
母との問題が完全に解決するには、同じだけの時間がかかりそうです。辛いですが、「同じ時間が必要なんだ!」と受け入れることが大事だと気づきました。
2013年3月3日 <過去のこと>母から離婚した父への悪口
これは7歳〜15歳に限ったことではないのですが、父と母が離婚した後、母はしばしば言っていました。
「家から出て行った父は最低だ、私たちを残して勝手に出ていった父が悪い、どうしようもない男だ、etc、etc・・・」
母は烈火の如く、父への憎しみを言葉にしていました。
(今思うと、これは母がこども達を味方にしたかったのかもしれません。)
そして、最後には決まって、
「父のような男にはなっちゃダメだから」と言っていました。
これらの悪口はとっても辛かったです。父をそんなに否定し憎んでいるなら、その父から生まれた私、父の分身である私は?当然憎んでいるはず、と思っていました。
そして、もう一つ。
それとともに、
「artoはそういうところが父にそっくり!」とも良く言っていました。
烈火のように憎んでいる父にそっくりな私。そんな私なら、もちろん母は私も憎んでいる。また、父のようになるな!と父にそっくり!と矛盾したことを言われ、一体、私はどうすれば?と思っていました。
成人してからも言われた記憶があり、父の悪口は辛かった記憶の一つです。
2013年3月3日 <過去のこと>保育園に向かう車の中
父がいなくなった後、小学校に上がるまでで非常に辛かった記憶が「保育園に行くまでの車の中」です。
記憶を振り返ると、保育園に行く時間になると、私は良く「保育園に行きたくない!」と母に言って、こたつにかじりついていました。
今、考えてみると、保育園自体が嫌なのではなく、母と乗る車が嫌だったのかもしれません。(保育園で辛かった、という記憶はないので)
母はものすごい勢いで怒り、力ずくで車へ引っ張っていきます。
私は泣きながら車に乗ります。外は良く晴れています。2kmくらい走り、ある交差点を曲がったところで、私が再びワガママを言ったら、車を横に停止させました。そして、母はもの凄い剣幕で怒鳴り、叩かれました。
非常に怖く、辛かった。その時の映像が強く記憶として残っています。
この出来事が、私が「母について、いつも怒っている記憶しかない」と思うようになる、始まりかもしれません。
これは父がいなくなった後の出来事で、いなくなる前がどうだったか、という記憶は思い出すことができません。
最近、母にこの事を聞いたのですが、「まったく記憶がない」と言っていました。しかし、残念ながら、私の記憶にはあるのです。
2013年3月3日 <過去のこと>父が家を出ていった日
この日のことは、非常に強く心に残っています。
5歳のある日、保育園から母の車に乗って、家に帰ってきました。
家の扉を開けて、居間に行ったら、手紙が一枚置いてありました。
その手紙には、「悲しくなったら、空を見なさい」と書いてありました。
それを見た瞬間、直感的に父が家からいなくなったことを悟りました。心は一瞬で不安と喪失感でいっぱいになりました。
私は大慌てで外へ駆け出し、父を探しにいきました。
「おとうさんー、おとうさんー」と大声で近所を探しました。
近所を2週したところで、母を見つけました。
その瞬間、私は諦めて、母に「おとうさん、いなくなっちゃった」と言い、「うわぁーん」と力の限り泣き出しました。
いなくなる以前、父と何かをしたという記憶はないのですが、やはり父のことは大好きだったと思います。もの凄い悲しい出来事の一つです。
2013年3月3日 <過去のこと>一番古い記憶
私が持っている一番古い記憶、2つほど。
一つは3歳くらい。家の2階から階段を降りて居間へ。居間には父がコタツに入って座っています。笑顔で迎えてくれているようです。そこに、笑顔の私が父の膝下へ入っていく、という記憶です。
もう一つは4〜5歳。父が出て行く前の話し合いの場。居間に父、母、親戚の方々、姉はいたか分かりません。みんな険悪な雰囲気です。私が泣いて、親戚の方に慰めてもらっています。その空気が辛かった記憶があります。
今振り返ると、父と母が実際に話している映像は、私の記憶にないんですよね。離婚後、電話で話をしているのは記憶にあるのですが。
2013年2月12日 はじめに(私の家庭環境、母との問題を大まかに)
こんにちは、管理人のartoです。
まず初めに、私の親子問題を振り返るにあたって、家庭環境と母との関係を時系列で大まかに説明しようと思います。
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(0歳) arto生まれる。父、母、3歳違いの姉の4人家族。
(0〜4歳)父と母の仲が次第に悪くなる。離婚の話が出てくる。
(5歳)父が離婚前に家から出ていってしまう。ここから母、姉、私の3人家族になります。
(5〜12歳)小学生時代。母は父を烈火の如く憎んでいました。また、私から見た母はいつも怒っていました。精神面で特に大きな問題なく、毎日を楽しく過ごしていました。(が、今考えるとこのあたりから徐々に私の心は傷つき始めていたのかもしれません)
(13〜15歳)中学校時代。この頃から高校に上がった姉と母の仲が非常に悪くなり、良く喧嘩していました。姉が大学を卒業するまでの5年くらいの間でした。母からは姉の悪口、姉からは母の悪口を聞かされるのが辛かった記憶があります。中学時代も精神面に大きな問題はなく、楽しく過ごせました。
(16〜18歳 問題始まり期)高校時代。高校に入る頃から、いつの間にか私は家で感情を出せなくなりました。特に家で「笑う」ことは一度もありませんでした。当時は「これが普通だ」と思って過ごしていました。そして、不思議とその頃から友人との関係、人と接することが非常に辛くなっていきました。それまでは友人とワイワイするのが楽しかったのに。これについても「思春期の一時的なものかな」と考えていました。
(19〜22歳)大学時代。母、家での関係は変わらず。対人の関係も表面上は仲良くしていますが、辛さは変わらず。「何故、こんなに辛いのだろう?何故、改善しないのだろう?」といつも考えていました。
(23〜29歳)社会人、家を出て一人暮らし。一人暮らしを始めるようになって、心の鎖が解き放なたれたような、心に自由を感じ始めたのを覚えています。対人の辛さもわずかに、本当にわずかですが良くなり始めます。この頃、「私と母、家での関係は普通でないのでは?」「母との関係の歪さが、対人の辛さに関係しているのでは?」と思い始める。
(30歳)実家が引越し。再び母と一緒に暮らし始める。母との問題を本格的に考え始めます。「何故、母との関係が普通でないのか?」「何故、家で感情を閉じ込め始めたのか?」。色々考えた結果、「母による過去のトラウマ」が関係していると思うようになりました。そして私は、今まで以上に母を憎むようになりました。
(30歳〜 解決期1)1年くらい、母を今まで以上に憎んでいましたが、あるきっかけにより(私にとって大きな)変化がありました。これにより、灰色だった世界が少し明るくなったのを覚えています。次の日から「母を恨むのはもうやめた!」と心に念じ、過ごし始めました。また、この頃から不思議なことですが、今まで一度も感じたことがなかった「寂しい」という感情が出てきました。母親との問題が回復に向かい始めたのかな、と思いました。
(30歳〜 解決期2)母を恨むことはなくなったのですが、それは「母を視界に入れないことで恨まないようにしていた」ことに気づきました。根本的な解決になっていないことに気づきました。心のザワザワ、緊張は今までと変わりませんでした。「何故、友人に心が開けないのか?」「それは母に心を開けていないからだ」と考え始めました。そして、2012年10月、ようやく母に今までのことを全て打ち明けることができました。少し前までは「私が過ごしてきた状況を母に打ち明けることは一生できない」と思っていたので、この出来事は私の中で「もうこの世に思い残すことはない」と思うくらい嬉しい出来事でした。
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大まかに書くとこのような感じです。話すことも難しいですが、文章に書くのもやはり難しいですね(笑)。これを踏まえて、この後は、私が当時感じていたこと、辛かったこと、母に聞いて欲しかったことを、エピソード形式でもう少し詳細に振り返り、「自分自身」と向き合っていきたいと思います。
★このページへのコメント
最近、人生が上手くいっていないので、arto様の「親子問題の軌跡」を読ませていただきました。私はarto様とは違った問題で悩んでいますが、読んで心に響きました。
ひとつ質問させてください。
arto様のお父様は、どんな心情で「悲しくなったら、空を見なさい」という手紙を残したと思いますか?
2018/1/3 ずいぶん前にswansongの感想を書いた人さん
ずいぶん前にswansongの感想を書いた人さん、こんにちは!
お久しぶりです。
管理人artoです。
この言葉の意味は、今まで深く考えたことなかったです。
無意識に、別れの出来事を心の奥に閉じ込めていたのかもしれませんね。
これまで「空を見れば元気が出るよ!」的なことだろうとそこで終わりにしていたのですが・・・。
今考えれば、
「一緒には居られなくなったけど、この広い空を介してお前と繋がっているぞ。寂しくないぞ」
ということを伝えたかったのかな、と。
ゲーム「家族計画」の主題歌「同じ空の下で」のような心境を言いたかったのかなと思いました。
あるいは、
「悲しくなっても、上を向いて歩きなさい」
「涙が出そうになったら、上を向け」
的な意味、また歌の例えになって恐縮ですが(笑)、
Liaさんが歌う智代アフターイメージソング「hope-look up when I walk」
的な内容を伝えたかったのかもしれません。
過去には、家族を捨てていった父を恨む気持ちもありました。
ですが、今となっては「父には父なりの理由があったのだろう」と許しの気持ちに変わっています。また「長い間、恨んだりしてすまない。ありがとう」という謝罪と感謝の気持ちもあります。
swansongさんのコメントのおかげで、自己の心を内省する良い機会になりました。
ありがとうございました!
2018/1/3 管理人